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第5話 偽りの条件

Author: 八月 猫
last update publish date: 2026-09-20 10:29:01

翌朝、澪はいつもより三十分早く出社した。

十八階の執務フロアはまだ静かで、照明も半分しか点いていない。昨夜までなら、この時間の静けさを落ち着くものだと思えたはずだった。けれど今は、誰もいない机の並びさえ違って見える。

自分がいない夜、この場所を誰かが歩いていた。しかも、自分の社員証を使って。

澪は本部長室へ入り、机の引き出しに社員証を置いた。もちろん昨夜のうちに情報システム部で確認済みだ。カードそのものに異常はなく、今も通常どおり使用できる。

だからこそ気味が悪い。

ほどなくして怜司が現れた。

「早いですね」

「高城さんに言われたくありません」

昨夜、最後まで会議室に残っていたのは怜司だった。睡眠を取っているのか疑いたくなるが、本人はいつもと変わらない顔をしている。

怜司は机の上へ薄いファイルを置いた。

「一つ、試したいことがあります」

澪は表紙に目を落とした。

『資金調達条件 再交渉案』

「本物ですか?」

「半分だけです」

怜司は椅子へ座り、ファイルを開いた。

内容は現在進めている資金調達交渉を前提に作られている。ただし、先方へ提示する予定のない条件が一つだけ混ぜられていた。

追加担保として、九条グループが保有する都心部の不動産を設定するという案。

実際には検討すらされていない。

「これを共有フォルダへ?」

「はい。昨日不正アクセスされた資料と同じ権限設定にして置きます。もし誰かが九条さんの権限を監視しているなら、興味を持つ可能性があります」

澪は資料を閉じた。

「わざと偽情報を流すんですね」

「正確には、流れるかどうかを確認します。ただし、この内容を知る人間は最小限にします。九条さん、私、情報システム部の担当者。それだけです」

「もし外に出たら?」

「内部から漏れていることが、ほぼ確定します」

澪は少し考えた。

自分の会社で、社員を疑うための餌を置く。気分のいい方法ではない。

けれど、疑わずに済む状況はもう過ぎていた。

「分かりました。やりましょう」

午前九時過ぎ、偽の再交渉案が共有フォルダへ保存された。

そこから先は、何も起きない時間が続いた。

澪は通常どおり会議に出席し、プロジェクトの進捗を確認し、取引先との電話にも応じた。知らないふりをするというのは、思っていた以上に神経を使う。

誰かと話すたびに、この人は知っているのだろうかと考えてしまう。長く一緒に働いてきた部下まで疑う自分が嫌だった。

昼を過ぎても、怜司から連絡はない。

もしかすると昨日の記録自体が、別の理由によるものだったのではないか。

そんな考えが頭をよぎり始めた午後一時過ぎ、秘書が本部長室へ入ってきた。

「本部長。東都フィナンシャルから連絡が入っています」

澪は顔を上げた。

今回の資金調達に関わる主要金融機関の一つだ。

「内容は?」

「先ほど先方の担当役員から、追加担保の条件について確認したいと」

一瞬、室内の音が消えたように感じた。

「追加担保?」

「はい。都心部の保有不動産を設定する可能性があるなら、正式な協議に入る前に評価資料を確認したいとのことです」

澪は何も答えなかった。

そんな話はしていないし、検討すらしていない。今朝、怜司が作った偽の資料にしか存在しない条件だった。

「本部長?」

「……分かりました。こちらから折り返します。今は何も回答しないでください」

秘書が退出するのを待ち、澪はすぐに内線へ手を伸ばした。

だが、番号を押す前に扉が開いた。

怜司だった。手にはスマートフォンが握られている。

「東都フィナンシャルから連絡が来ましたか」

澪はゆっくり受話器を置いた。

「どうして分かったんですか」

「情報システム部から通知がありました。十二時十八分、あのファイルが閲覧されています」

「誰の権限で?」

怜司は一枚の紙を差し出した。

そこに記されていた名前を見た瞬間、澪の呼吸が止まった。

またしても――九条澪。

昨日と同じだった。

自分はその時間、役員会議室にいた。十人以上が同席している。証明するまでもない。

「これで少なくとも一つ分かりました」

怜司の声は低く、静かだった。

「相手は情報を集めているだけではない。外へ流しています」

澪は紙を見つめた。

そして、その事実よりも気になったことが一つあった。

偽の資料が保存されてから、東都フィナンシャルから連絡が来るまで四時間もかかっていない。

誰かが見ている。それも、かなり近い場所から。

澪は無意識に、本部長室の扉へ視線を向けた。

その向こうでは、いつもと変わらない午後の業務が続いている。電話の音、キーボードを打つ音、社員たちの低い話し声。

その中の誰かが、自分の名前を使っている。

そう思った瞬間、昨日まで見慣れていたはずの職場が、急に知らない場所に見えた。

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